【欧宝体育投注下载 健康社会戦略研究所】石井正三所長寄稿『社会医学的にみたパンデミック事象』

「社会医学的にみたパンデミック事象」

欧宝体育投注下载 健康社会戦略研究所 所長 石井 正三

 

 

*はじめに

昨年11月頃から武漢にアウトブレイクを起こした新型コロナウィルスは、日増しに拡大して全世界を巻き込む感染症パンデミックとなった。感染蔓延の恐れに対して、新型インフルエンザ等対策特措法に新型コロナウィルスを加えた法改正が3月に国会で可決成立された。これに基づいて、日本では4月7日7都道府県を対象に緊急事態宣言が出され、16日には全国に拡大された。5月4日にはこの緊急事態宣言が延長され、新規感染者の発生数は低下傾向となってきた一方で、経済的な落ち込みが次第に明瞭となり事態は深刻になっている。

流行が落ち着いたことによって5月14日首都圏?近畿圏と北海道を除いた39県の緊急事態解除が発表され、5月21日には近畿圏も解除された。更に5月25日安倍首相の会見を経て、26日からは総ての地域における緊急事態宣言が一旦解除された。26日の時点で国内感染者数16,632名、同死亡者851名となる。

日本の今回の緊急事態宣言には罰則規程が伴わないのにもかかわらず、国民の理解に基づき一致して示された見事な行動力によって、感染の蔓延防止と著しく低い死亡率のいずれにおいても、世界でも最上レベルの結果が得られたのは印象が深い。

 

2011年3月11日発災の東日本大震災に併発した東京電力福島第一発電所原発事故以来、放射線被ばくという目に見えない怖れとフロントラインで付き合ってきた福島県の特にいわき市におけるこの10年は、図らずも災害フロントラインとしての実体験でもある。放射線被ばくとウィルス感染パンデミックは、どちらも目に見えない相手との闘いであり、しかも社会崩壊の危機まで迫ってくるという共通点がある。その共通部分と相違点の双方から浮かび上がる社会的問題点が、次第にあらわになっている。

もう一方で、今回のパンデミックとそれに伴う事象は、世界中を覆いつつあったグローバリゼーションというトレンドに冷水を浴びせかけた。この影響は数十年にわたって続いてきた大きなエネルギーの方向性を反転させるほどの重大なインパクトを秘めている。

 

*見えないモノとの闘い

まずは今回のウィルスとの闘いでも特徴として目につく「見えないモノとの闘い」について考えてみよう。

人間の5感のうち視覚で認識できないことを「見えないモノ」と表現されるのが一般的概念だろう。しかし、脳の認識論からすれば更に、何かにある種具体的なイメージを持っている場合かそうでないかも含まれるかもしれない。つまり、対象物を言語化することによって、例えば「イヌ」というものを思い浮かべるし、もっと具体的に血統や大きさそして毛の色などの情報を加えれば、共通する姿としてかなり同じイメージも共有できるだろう。つまり、「可視化」「見える化」というのは、実態として視覚的に特定の場所における同時性の中で捉えられるモノという基本的要件に加えて、他人にイメージを想起させることができるかどうか、これをも加えるのが現代的な定義付けかもしれない。漫画は輪郭線や背景の連続に吹出しを加えた構成によって、かなりに複雑な状況や筋立てを、場合によっては海外の読者にまで、伝えることができている。各種のプレゼンでも、数枚のイラストと解説によって、受け手にまとまったイメージを伝えている。これを敷衍して、コマーシャルなどで繰り返して動機付けすれば、ある種の言葉を話す犬を出すだけで特定の会社の携帯電話のイメージを多くの人に紐づけすることができる。これは確信的な心理ゲームでもあるのだ。

そこでコロナウィルスの話題に戻れば、自分の目では見えないモノの印象を深めるためだろう、世界中でコロナウィルスの電子顕微鏡写真を投射して話題を提供している。これによって、例えば81人の感染者と1人も死者のいない福島県にも円滑に緊急事態宣言が浸透し、学校や多くの仕事を閉鎖して国民としての自粛を実行している。遂に1人も感染者が出なかった岩手県においてもそれが完遂できている。

 

福島原発事故の後には、全国からまた国境を超えた海外からも力強い支援を頂いた。おかげで現地で復興を遂げる決心を後押しして頂いたことには深く感謝している。その現地での皮膚感覚でも、見えないし感じることもできないのが放射線汚染?被ばく問題である。そのためもあってか、それを論じるときには、複数の水素爆発事故を起こした原子力発電所群の映像を繰り返し重ねて引用された。その結果として、「福島」―「放射線」―「被ばく」という観念は、広く深く固定化された、と考えられる。全量測定を経て安全性を確認の上市場に出荷されている米や野菜?果物や魚類に、以前なら付けられたそれぞれの評価と値段が、現状では未だに得られていないのはそのせいもあるだろう。例外的な事象として、日本酒については国内だけでなく海外からの引き合いが多く到来したと聴く。多くの蔵元たちが毎年頑張っていて7年間国内最多の金賞を獲得してきた実績が、2011年の原発事故以来固着された悪しきイメージ=スティグマを凌駕する効果を発揮したと言えるだろう。つまり、風評は乗り越えることも可能なのだ。

 

放射線被ばくについては、20世紀におけるアインシュタインの相対性理論から量子力学の発達に伴って中身が見えてきた。この過程において、人類に寄与する放射能平和利用の分野を拓いたキュリー夫妻の尽力を見落とすことは出来ないだろう。また、放射線の一種であるX線を利用した人体の透視画像が、どれほど人類の健康に恩恵をもたらしたかは計り知れないものだ。また、手術や薬剤で治療し切れないがんに対しても放射線治療が用いられる。このように見れば、放射能の平和利用を目覚しく実現したのは、医学の領域においてと表現することができるだろう。一方で、核爆弾の脅威や様々な職場環境における被ばくとその累積する影響という負の問題も明瞭化した。また、それぞれの概念の違いに合わせて計測する単位が何種類もあり、また安全域のガイドラインも、食料安全基準や産業活動また使われる医療の場面によって様々なものがある、という点で被ばく医療を考えるときの分かりにくさがある。

そもそも現実世界においては、放射線がゼロという状況を想定することは不可能なのだ、この宇宙にはそれくらい放射線が満ち溢れているとも言える。その中では大気や水が存在している地球上の環境はよりマシなのだと思えるが、地球そのものを平然と貫通して行くニュートリノのような存在を知ってしまえば、むしろこの現実世界から除外することはできない構成要素なのだと思わざるを得なくなる。人類に対する恩恵をもたらす平和利用という観点でみれば、未だわたしたちは第2?第3のキュリー夫人がこの地球上に出現することを必要としているのかもしれない。

 

被ばく医療とウィルス感染症に共通する特徴は、見えないどころか人間の五感でも感じることができないリスクであることだ。

光学顕微鏡の進歩に伴って細菌研究が進歩したのは19世期末期から20世紀前半であり、明治維新後の近代化の流れの中で、北里柴三郎がドイツのローベルト?コッホ研究所に留学し本格的な細菌学研究が行われた。医学部を卒業して医師となってから行政官を目指した後藤新平も早速その研究所を訪ねている。衛生学の中にも新しい分野としての当時最新の基礎医学である細菌学の研究成果が導入されると、この後藤新平が行政官から政治家と転身する中で、新しい都市政策として日本の政策そのものに反映され、更には、植民地経営の都市建設からひいては関東大震災や東京大空襲後の復興プランなども立案された。

都市文明の負の部分としての疫病の蔓延は、大きな災厄として何度も発生して歴史上に記録されている。都市政策における社会学的なアプローチにおいても、衛生管理の部分は不可欠な要素であり、それが第二次世界大戦後に一層発達した救急災害医学の骨格部分ともなってきたのだ。

可視化できないことで光学顕微鏡に頼る時代にはウィルスの発見は困難で、電子顕微鏡の出現によって漸く病原体として捉えることができた。これもある意味放射線技術の平和利用が医療に恩恵をもたらした例と表現することができるだろう。

このように、医学は応用学であるために、他の周辺領域の科学的発達によって従来の限界を超えるブレークスルーが数多くもたらされることがある。これが医学の進歩における特徴でもある。

 

ウィルスそのものは、生物の中に入って増殖活動をしないときは物質として振る舞うニュートラルな存在でありながら、生物の体内に入って自己増殖のスイッチが入り生命体として振る舞い始めると、宿主に悪影響を与えて感染症の原因となる不思議なモノなのだ。そのウィルスと比べれば、人類はずっと遅れてこの世界への参入者となったようだ。そのために、むしろこの世での人類の存在とは、ウィルスの海に浮かんでいるようなものだ、と極論する研究者もいるほどだ。

物質と生命体とを瞬時に往復しているウィルス的なあり方と、複雑な遺伝子の複製過程から20年近くかかって漸く成人した独立した生命体として世に送り出される人類のようなモデル、そのどちらがよりしっかりとした存在なのかは、従って、事象の見方によることなのだろう。

コロナウィルスは、人獣共通感染症と呼ばれるカテゴリーに属し、生息する相手は柔軟に選ぶタイプだ。そのために、人類が分け入ったことのない森の最深部や実験室の最先端からでも、突然邪悪な力を持った病原体として飛び出してくるのだ。エボラ出血熱なども、そのように人類への親和性を増した型として、突然出現してくる。インフルエンザウィルスなどと同様にRNAウィルスの特徴として、遺伝子の転写の回数をDNAウィルスよりも多く要することもあってその遺伝子が変異しやすいという特徴を持つ。

 

このように、両者共に見えない力や存在である放射線やウィルスは、この世の環境に厳正に存在する何ものかであって、人類が容易に存立を左右することは困難である。同時に、人間の遺伝子がたどって来た進化の歴史とも切り離すことができないようである。そのような観点からすれば、最近のコロナ後/アフターコロナかコロナと共に/ウィズコロナかという論議は、充分な認識から出発していない感じも受けてしまう。好むと好まざるとに関わらず、コロナウィルスを含めて人類よりも先行して存在し、変異しながら存在し続けるモノたちとも付き合いながら、私たちは与えられた環境の中で人類として安寧な存立を目指すしかないのだ。

 

*パンデミックによるインパクトの諸相

今回のような世界的感染症の流行パンデミックによる影響を、3つの切り口から捉えてみることができるだろう。社会的な観点での激変とそれを下支えしている公衆衛生的な衝撃/インパクトそして経済的な危機/クライシスの問題だ。

 

第1は社会学的な面だ。それぞれの社会において各自が持っている特質は微妙に異なっているが、医療が機能不全や崩壊の危機に陥った時、人々は可能な治療を求めて大きく動きだす。その危機感が強いほど人々の不安は増大し、少しでも効果が期待できる医療の機会を求めて移動を始める。明日でも済むはずの医療への機会まで求めて行動が増大すれば、エネルギーがシンクロして社会崩壊の危機となる。

2009年春、新型インフルエンザ流行の時には、問合せ電話の集中やそのような人々の殺到によって、各地の休日夜間診療所は機能不全に陥った。例えば、インフルエンザで熱っぽい子供さんを抱えて、日中に当座の治療薬を貰ったにも関わらず、更なる安心と数日後のタミフルを求めて待合室に行列する方々が多数いらした。時間の経過とともに、新型インフルエンザがそれほど致命的ではないと判明して騒動は次第に収斂し、やがて季節性インフルエンザと大差のない扱いに変わって人々の受療行動も落ち着いたものになった。制度的には新型インフルエンザ特措法も制定されて、今回の対応の基本となったのは、このときの教訓による。迅速な情報開示から基礎的知識の共有を進めることによって、即応体制づくりも、人々の行動に示される不安とその後の落ち着きも、敏感に変化するものだと検証された。

公衆衛生的には、日本社会に本来アプリオリに備わっている整理?整頓?清掃?清潔?しつけという5Sとまとめて表現される伝統があり、対面して挨拶する時でも日本では濃厚接触を避けながらお辞儀で丁寧さを示すことができる。自宅の玄関で履物を替える習慣も、外からの汚染持ち込み防止に有効な手段となり、加えて、埋葬時には火葬が一般的となったことも感染予防には有効だろう。

今回はそれらに加えて、マスクと手洗いの励行そして社会的距離ソーシャルディスタンシングなどを推進する、新型コロナウィルス対策が励行された。効果のある消毒法の徹底に加えて、パンデミック対策として人の移動を制限したり、密閉?密集?密接の3密を避けることの徹底も今回広く推奨された。またサービス産業やイベントの中止などの方針が打ち出された。

第2は医学的な面だ。地域社会における医療のレベル?ネットワーク?人員や機材そしてベッド数という医療資源とそのキャパシティの拡張可能性で、アウトブレイクにどこまで持ち堪えることができるかが決定される。

国立感染症研究所の分析によれば、この新型コロナウィルスの日本への伝播は年初から1月後半までが武漢株、それに連続して3月後半にはヨーロッパ株一部アメリカ株という変異株に置き換わり、患者数統計のカーブでは一連の事象に見えて大きな第1波と捉えることもできるが、事実上既に第2波流行になっているとみることもできる。また北海道では明瞭に2峰性になっていて、一般的にも第2波まで来たと表現されている。しかしここでは医学的な分析や地域の事情をも踏まえた上で、広く一般に使われている現象面からの第1波という表現で統一して論議を進めたいと思う。

現在も流行が止まっていないロシアや東南アジアそしてアフリカやラテンアメリカなどからの変異系による新たな波が、今後次々と到来するリスクが厳然と存在する。

第3は経済的な部分だ。既に1か月を超える移動や営業そしてイベントの自粛によって、2008年リーマンショックを超え1929年に始まった大恐慌に匹敵するか、それをも超えるような経済的損失を避けがたいという報道が日増しに大きくなっている。パンデミック終結によってV字回復を図ることができるかどうか、ここが大きな転回点になるだろう。

これらの要素についてもう少し詳しく考えてみよう。

 

*社会的なインパクト

この新型コロナウィルスのパンデミックによって明らかになったことがいくつかある。例えば、第二次大戦における旧戦勝国の枠組みで構築された国連やWHOなど世界の基本構造の機能不全が広く知れわたることとなり、グローバリゼーションへの一方向性のシフトには終わりがきたことが明瞭にされた。民主主義の価値観を共有しない独裁的な体制と同一のプラットフォームで合意形成する困難さは、その大きな要因となっている。情報の共有や透明性の高い事後検証を抜きにしては、パンデミックへの対応で足並みを揃えることも困難であった。科学的知見の積み上げに政治的配慮が混じれば、真理の追求や社会的共有資産を築き上げることが困難である。まして緊急性の高い医学的対応において、最前の医療提供を求める現場の声に応えるためには、確実なデータに基づいた方法論確立が必須なのだ。

民主的手法には限界も多いが、不連続性の高い突発事象に対応する時には、現場から溢れ出るように届く情報から対応策を立て、変更するべき点が見えれば、さらに周知を集めて次の対応を決定することができる。権限が過剰に集中した社会では、先行した決断の変更が困難であったりする場合など問題をさらに大きくしてしまう。有機水銀中毒の水俣病やカドミウム汚染によるイタイイタイ病に対して、警告を発したのはいずれも地域の開業医であった。それまでの政策や社会的なトレンドとはコンフリクト起こして対立するとも見える。現場からの情報を汲み上げて政治の方向性までを変えてしまうことが必要となるとき、そのようなダイナミズムが乏しい社会では、その分だけ結果として被害を大きなものにしてしまうのだ。

 

医療費や社会保障のコストを十分に提供できないか、削減した社会では、対応策に限界が生じやすく被害も深刻なものになる。社会全体を包み込む平準的なサービスの支援継続が乏しれば、被害の数字的なスケールは大きくなってしまうからだ。

グローバリゼーションか閉鎖的な自国第一主義かという政治的スローガンの二項対立が近年欧米で盛んに論じられていた。それは、中東やアジア?アフリカで続く地域紛争や地域間紛争による政治的難民や経済難民の増加に対抗する方法論としての論議が中心だった。しかしながら、それは紛争によって引き起こされた人口移動という結果に対処する方法論に過ぎない。肝心の地域社会や地域間対立への処方箋がなければ、先進諸国側の必要経費の膨張や難民の流入による社会の不安定化といった論議だけで解決できるものではない。紛争地域の人々の安定した存立を図ることが困難であれば、受け手側の地域社会での安価な労働力としてのニーズだけでは収拾できず、その社会の新しいバランスを図り持続可能性レジリエンスを高める方法論も伴って、初めて問題全体の縮小を図ることができる。

 

*医学的観点から

ウィルス感染症という目に見えない相手との闘いで、感染症対策として公衆衛生的手法から、濃厚接触を避けるためのマスクや手洗いの励行、密閉?密接?密着の3密を避ける、一定の距離をおくソーシャルディスタンシング、街への人の繰り出しを80%位低下させる不要不急な接触機会の低減、などの目標が提言された。

 

がんの放射線治療など有効な線量を照射する場合でも、他の部位に対しては極力無駄な線量を当てないように配慮する。つまり、被ばく医療においては防護と汚染防止の二点が基本になる。防護の場合には防護服などの装備や水や鉛などの遮蔽そして距離を取ることによる被曝線量低減が欧宝体育投注下载となる。放射線の汚染対策では、マスクや手袋そして手術衣と同様の前着などを組み合わせて対処し、汚染リスク高い順にレッド?イエロー?グリーンと区分けした領域設定(ゾーニング)を行ない、汚染防止に使用した医療材料の安全な外し方は感染症における標準的手法で対応してグリーンゾーンに戻ることになる。

汚染の防護という医療的視点からすると、その方法論は細菌やウィルスによる汚染の場合でも共通点が多い。汚染地域において赤?黄?緑の区分け(ゾーニング)を行なう原則として、手袋?マスク?防護服?フェースシールドなどPPEと呼ばれる装備を赤レッドゾーンでは全て厳密に装着し、黄イエローゾーンで手順通り着脱をし、まとめた感染性廃棄物を緑グリーンゾーンで安全に焼却処分など行なう。着替えた平服でグリーンゾーンでの行動をする。

化学物質汚染の場合には、これに揮発性や腐食性などの要因に配慮した装備や方法論が加わることになる。

被ばくの場合には、この汚染対策に加えて、レッドゾーンでは直接被ばくに対して特殊な装備を必要とする場合がある。また、甲状腺被ばく対策としての安定ヨウ素剤や内部汚染対策のキレート剤そして表面汚染のクリーニングなどの知識が必要だろう。

ゾーンから離れれば長期被ばくへの配慮も必要だが、被ばくフリーの空間が現実的には存在しない以上、宇宙船地球号上で必要に応じて生きていく心得の一部としてわきまえるということになる。感染症対策においては、社会全体に一定の汚染リスクがあると想定することで、マスクや手洗いを基本としながら、手袋など一層の汚染防止対策を順次追加することになるのと同様である。

 

東京オリンピック2020は1年の延期が決定され、大規模イベント自粛、今年は花見も連休も人出のない状況が全国で展開された。連休中の道路上でも物流用トラックなどの車両は保たれているものの、2011年の原発事故直後のフラッシュバックのような、閑散とした情景となった。観光その他のサービス産業においては、特に東京オリンピックを当て込んだ建築ラッシュ後に需要増大を見込んでいた期待値分が先延ばしになったので、対前年比マイナス分と合算した極めて大きな負の影響が想定される。食料品や生活必需品などは旺盛な購買力に支えられた一方で、一部の製造業や各地の小売店舗そして外食産業や観光関連産業などが危機に瀕している。鉄道や航空産業への影響も著しく、特に出入国に関する世界的な規制強化による人々の移動?往来の低下の程度は、100年前1918年頃のスペイン風邪大流行時代まで時間が逆行したかの如くである。

 

エボラウィルス病のアフリカ中心の流行拡大アウトブレイクに際して、ちょうどアフリカ大陸で世界医師会WMAダーバン(南アフリカ)総会が開かれた。この時、アフリカ諸国の強い要望があって、2014年「未承認の治療とエボラウィルスに関する総会緊急決議」が採択された。私も当時世界医師会理事会副議長としてこの決議の成立に尽力をした。この中では、今回のコロナウィルス対応でも注目を集めているアビガン(ファビピラビル)を含む未承認薬をエボラウィルス病を含む緊急性の高い疾患に使用する場合、ヒトを対象とする医学研究の倫理諸原則 WMAヘルシンキ宣言第37項に準拠することを医師に求めた。

「?臨床における未実証の治療 第37項:

個々の患者の処置において、証明された治療が存在しないかまたはその他の既知治療が有効でなかった場合、患者または法的代理人からのインフォームドコンセントがあり、専門家の助言を求めたうえ、医師の判断において、その治療で生命を救う、健康を回復するまたは苦痛を緩和する望みがあるのであれば、証明されていない治療を実施することができる。この治療は、引き続き安全性と有効性を評価するために計画された研究の対象とされるべきである。すべての事例において新しい情報は記録され、適切な場合には公表されなければならない。」

この総会から戻り、当時の塩崎恭久厚生労働大臣了承を経て日本政府の仲介のもとで、アフリカで活動中だったフランス系医師団に薬剤が提供され、適切な説明と同意のもとで薬剤投与が行われた。

薬剤の有効性評価には、二重盲検試験という手法がよく用いられる。それは患者さんを2群に分けて一方に治療薬を、もう一方にはそれに代わる偽の薬剤を投与して結果を比較する手法である。しかしこの時には、致命的な感染症の患者さんにこの手法を用いるのは倫理的に許されないとして、この手法を取らない臨床試験として患者さんに薬が投与されたのだ。この結果については、後日、有効性があったと結論付けたフランス発の学術論文としてまとめられ報告されている。

今回の新型コロナウィルスにおける経緯においても、このような経緯の真意がしっかりと伝えられ、生命の危険に直面した患者さんのためには有効と考えられる治療が試みられ、そして恐怖におののく世界中の人々に対する有効な方法論が一刻も早く確立されて欲しいと願っている。

 

*その後の経過?不要不急と災害事象

全国に出されていた非常事態宣言が5月14日に39県では解除されて、改めて首都圏の東京都?神奈川県?埼玉県?千葉県、近畿の大阪府?京都府?兵庫県そして北海道が残された。その翌週の時点で発表された病院関連3団体の調査によると、全国の約80%の病院が減収になっているという。更に、積極的に新型コロナウィルス患者受け入れに協力した病院においても減収になっているとのことだ。これは由々しき事態と考えられる。

何故なら、通常の標準的医療を支えている保険診療に、災害事象としての感染症パンデミックが出現したのだ。医療のニーズは二段重ねとなって伸びるのが経済原理であり、従って医療費もまた増大すると単純には考えられるのだが、実態は全くそうなっていないのだ。

世界中で身体を張って災害事象に立ち向かった医療関係者への拍手のパーフォーマンスやブルーの照明などで表現された感謝の意思表明は、非常に心に染みる有難い応援だった。しかしながら、その真情の表明は頂戴したものの、医療機関側でのマスクや防護服そして消毒剤や診療システムの見直しなど通常業務以上に費やした投資への経済的な支援には至っていない。

医療現場のみでなく、介護の拠点や保健?福祉そして通所リハビリテーション?在宅ケアの現場でも実に津々浦々まで手洗い?マスクの励行や三密を避けて不要不急の行動を控える動機付けは徹底されている。それぞれの施設でも入り口から手洗いや消毒そして検温などが励行され、普段はオープンなカウンターなどもビニールの垂れ幕などで区分けされた。日本の制度上は罰則規定や強制性がない状態の中で、公衆衛生上の手技は見事に浸透して励行されている。医療や介護の施設だけでなく、在宅ケアの現場でもそれぞれのケアにおいて介護関連のスタッフやご家族まで、訪問介護まで関わって現場を目の当たりにしている私の目にも、その徹底ぶりは明らかである。医療機関側でも、内視鏡検査なども感染リスクと緊急性の軽重を勘案されて抑制的に行われていたし、ITなど利活用した外来診療も緩和されてすぐに現場でご希望に合わせて実行されている。これらは、4月に保険診療改定が施行された中には反映されていないために、別途災害時対応として算定されなければ、現状のような持ち出し経費部分が十分な評価の対象にならないままだろう。

 

ここまでの結果で見ると今回の新型コロナウィルスの感染者16,367人?死亡者768人という数字は、平時の医療体制の中での少産多死傾向を左右するほど、つまり年間100万人を超える死亡者数に対して余り影響を与えないだろうと考えられる。それだけの危機感を持って、世界的にみても最善と評価できる対応を全国民挙げて行なったとの評価ができる。

医療関係者の過酷な勤務状況への対価が少ないだけでなく、このままでは住民側も失うことの方が多かったのではないかと別な心配が湧き起こってくる。

インフルエンザの流行が今回新年に入って急速に収束したように見えること、休日夜間診療所への受診行動も控えられたばかりでなく、さらに救急出動さえも減少したと伝えられていることは、国民の受療行動が「不要不急」以上に抑制されているとも考えられる。現状のコロナ騒動の中で、一般医療の中でのがん検診やこれまでの予防接種などが先送られているのも現状である。国民の健康行政が十全に執行されていない現状では、中長期的には早期発見ができたがんに対する適切な治療時期を逃したり、別種な感染症対応が不十分な状態となれば、救える生命を取りこぼすことに直結するだろう。長期的には生活の質を低下させたり致命的な疾病を招くおそれのある生活習慣病にも、対策として適切な生活指導や必要な医療的相談などを行なってきた。これは、脳卒中や心臓病などの深刻な疾病が起こってしまってからの救急対応と同じ位、国民が日々直面している大きなリスクから免れるための、必要な方法論なのだ。私たちはこの必要以上に抑制されている部分を取り戻す必要がある。日本が世界に誇るべき国民の健康長寿指標が低下する数字となってからこれを取り戻すためには、遥かに大きなエネルギーやコストが必要になることだろうから。

 

このパンデミック現象は当面、社会現象として変異株含めて一体となった第1波を潜り抜けたところに過ぎない。世界的にみれば、現在ラテンアメリカや東南アジアそしてアフリカなど広範な地域で感染者がまさに増大しているところであり、100年前のいわゆるスペイン風邪では、第2波が酷かったと記録されている。われわれは医療従事者だけでなく国民も総て、更なる感染症の波が到来することはむしろ当然起こるものと想定して今から備えておかなければならないのだ。災害医療対応はこれまで以上に予算が必要であるし、前年度予算の予備費や今年度の枠に加えて第1次補正予算が議決されて、更に第2次補正も急ぐと表明されている。それならば是非とも、医療現場とそれを支えるシステムへの予算給付を早急に実行しておかなければ、次のフェーズでまさに医療崩壊が先行して起こり、そこから社会の崩壊に至る状況を目の当たりにすることになるだろう。

 

新しい日常?新常態または新しい生活様式ニューノーマルという状態はどのようなものになるのか。言葉の定義が明瞭でないまま、その表現が使われているのが現状とも感じられるが、敢えてその内容の明瞭化を試みれば、多くは個人レベルでの新型コロナウィルス対策の骨子を継続したまま経済活動を開始する方向に舵を切るという文脈で使われている。経済活動を優先するのだから、移動の制約を先ずは同一の都道府県内、更には隣接する都道府県との人の移動やサプライチェーンの再起動を目指すだろう。

しかしここで終わってしまっては、余りに楽観的に過ぎるだろうとの誹りを受ける可能性がある。何故ならば新型コロナウィルスの第2波以降の襲来は、最低限織り込んでおく必要があるからだ。世界中を駆け巡ってきた変異しやすいウィルスが、果たして同じ形態で第2波として来るものなのだろうか?その答えは、限りなくNoに近いだろう。

そうであれば、今回に効果的だった対応方式は次回も発動できるようにしながら、それ以外の対応も考えておく必要があるということになる。

更に、世界的な気象変動の影響が相前後して生じうるということだ。そうなると、災害事象が複合型災害としてやって来た時に、どこまで対応できるかが問われているのだ。

そのためには最低でもコロナウィルス対策に自然災害対応を加味することが必要となる。

自然災害対応とコロナウィルス対応で最も異なるのは、避難所の状況だ。自然災害単独であれば避難所にはできるだけ多くの被災者を収容することが求められる。しかしながら、コロナウィルス対応では、人と人の距離をできるだけ開けるソーシャルディスタンシングが求められる。従ってこの場合、避難所として普段の数倍の避難所や避難スペースを提供する必要がある。複合災害であるから、電気?水といったライフラインだけでなく、物流にも支障をきたす恐れがあるだろう。それに加えて、地域内部での人員だけでは責務を果たせなくなると想定しておくことも必要である。

更に、自前で地域医療全ての活動を支える人的及び物的資源が入手できるかどうか。また、インシデントコマンドシステムICS緊急時総合調整システムのように災害時に参集する多職種連携を支える行動規範が共有されているかどうか。

災害時こそ、同一目標で動く多くの職種の連携した現場対応が、必要なのだ。

社会の持続可能性を担保しながら、経済活動を支え、医療?介護や社会保障を維持継続できるニューノーマルな社会とは、あらゆる災害と向き合いながら人々の生活を支え続ける覚悟を持った社会ということになるのだろう。そのためには、グローバルなサプライチェーンに参加できる独自のブランド力や付加価値も高めながらもそれに過度に依存せず、いざとなった時必要な資機材を自給自足にしておく賢さも求められるのだ。

 

*経済と社会そして健康政策の新しい連携モデルをめぐる考察

人類が社会的動物であることを基本的な特質として挙げても容認されるだろう。その社会的な性向が、様々な形のコミュニティを生み出し、複数の人間による分業化も発展した。コミュニケーションのツールとして言語を生み出したが、共通の巨大なバベルの塔建設という試みには言語体系の分断化という陥穽が待っていた寓話がある。モノの価値を貨幣という媒体を介して抽象化することによって、社会の中で共通化して物々交換の不自由さを軽減した。旧石器時代には既に、このような品物の取引システムは人類の中でかなりの発達を遂げていたと思われる。これらのシステムは並存しながら社会の枠を超えた人と人の交流や交易を実現していっただろう。

痛みや苦しみから免れる方法論としての医療という部分も、起源は遠く遡ることのできる概念だろう。原始的文化の中ではまじない師といった存在が他の多くの機能の中で兼務している形態もあるようだが、やがて知恵や知識の集積を伴い、実践学としての医術や治療薬が評価されると同時に機能分化することになる。それは社会の中での職能として貨幣経済の適応範囲にもなって貨幣による価値の評価の対象となっただろう。社会という単位の中で、健康の維持が投資の対象となる連関が成立した過程はこのようなものかもしれない。ここから始まって、個人としての健康だけではなく社会的存在としての健康という、現代的なWHOによる定義が演繹されるのだ。

 

人材が世界的規模で発掘され、新しいビジネスを出現させる多くの人材同士のスパークがグローバリゼーションという時代を進行させた。

サプライチェーンの国際化とは先進国側のアイディアによる商品デザインで世界に安価でパーツを発注し、そのアセンブルや組み立て作業まで効率的に組み上げられた方法論を使って、途上国側の安価な経費と労働力に依存する。それはある時点まで、途上国に新しい仕事と雇用を生む効果がある。しかし、それによって日本を含めた先進国側は、途上国側の賃金やコスト体系と競争しながらそれに破れていった。これは一つの社会の内部で固定的な二極化を進めるよりも、一層露骨で固定的な分極化を世界に撒き散らす方法論でもあったかもしれない。

グローバル化した企業が経済的な成功の対価を必要以上に仕事の一部を受注した社会に還元することはないし、先進国側のグローバル企業は徹底的な節税や税の減免を始めとして、社会的コストを自ら進んで提供することもあまりないのだろう。従って、社会がその中で一定の健康で安定した生活を維持するコストは、それらのグローバル企業からは望むことができない。つまりこの点でグローバル企業は、旧来の国や体制から見れば、殆ど対立概念となっているのだ。

知識の伝達のための言語やコミュニケーションツールの延長線上にあるグローバリゼーションは、社会や国家という枠組みを越えようとするダイナミズムが内包されている。グローバル企業は税金や社会的負担の徹底的な回避に向かう性向も持っている。その結果、この両者は時として対立概念となってコンフリクトを起こしている。この方向において、かなりの国や社会はグローバル企業の下部組織化されているかもしれない。しかし、社会保障の財源までコストカットの対象としたグローバル企業が社会的安定抜きにして、安定したビジネスのネットワークを世界に拡げて維持できるわけではないだろう。まして、ヴァーチャル通貨を発行してグローバルな商取引を長期間維持することが、国や社会の関与なしに可能だろうか。それは、異なる社会構造や政治体制によって引き裂かれる現代のバベルの塔にならないという保証がどこにもない、ということに他ならないのではないか。

膨張を重ねたグローバリゼーションは、この収縮局面で自ずと見直しがされるだろう。コロナウィルス対応がそれぞれの国対応となり、今回、日本国内では都道府県単位から更に地域ごとの特性に合わせた対応が求められた。そこまで一旦概念が整理されたので、この収縮傾向が見直される時には、地域社会コミュニティレベルでの特性に合ったシステム再構築が行われ、社会的なシステム維持のためには、適正な負担という論議もなされるべきだろう。

 

以上これらの3つの要素は、現実にはロシアのマトリョーシカの如く互いが入れ子状態になっている。大きな観点からすると、社会の存続のための基本的下部構造が医療介護を含めた社会保障の機能不全の度合いによってはそれぞれ揺らぎ、その上部に花開くべき経済活動に生じたリスクはまた、それぞれの社会や社会保障制度全体を揺るがすことになる。

 

高騰する医療費が社会の存立を脅かす大きさになって、近年は医療側が経済的マインドを持つべきだという意見が大きくなっている。しかし、仔細に見れば、それは単に医療者側だけが受け持つワンサイドゲームではない。

より良い生き方と健康長寿を求める人間個人としての希求と、医療側のサービスの多様化が現状の基本にあると思われる。その中では、死なせない技術の進歩も大きな要素を占める。従って、部外者から見れば有意の人生を送ることが困難そうなケースでも、ご本人やご家族からの強い要望によって技術を精一杯動員することがありうる。その責任を医療側にだけに求めるのは些か困難であろう。時代の流れの中で、社会的合意形成が必要な部分は存在している。それらの方法論は、臓器移植や遺伝子工学による先端治療など、今後はますます多岐に渡って大きくなるだろう。

古代エジプトのようにミイラとして次なる生を願う志向と技法は、いつの時代にもありうるだろう。それらは願いと、そのコスト、医の倫理との整合性、そして実現したとしての得られる満足と、総てを勘案した上でもう一度標準的医療の手法としての妥当性が時代に合わせて検討される必要がある。医療経済学が発達していることを前提とした上で、社会的動物である人類が形成した社会のあり方を下支えする医療?介護?保健?福祉など社会保障の諸制度と共に、経済活動というパワーと成果を今後も社会の牽引車として前進させるためには、経済と健康政策を一層両睨みしながら、今後の方向性をつくっていくことが必要と考える。

 

医療政策の立案?決定上には近年大きな節目があった。健康関連の領域が通常の経済活動とは異なって見え、放っておくと自己増殖的にそのコストがどんどんと増加していて、実体経済を圧迫する恐れがあるとして、イギリス病と言われた連合王国経済にサッチャー改革が大なたを振るった。このときに医療コストの大幅削減が実行された。このような政治的トレンドが成功を収めたように見えた中で、経済学的視点から医療関連のコストは消費と区分され、社会全体の無駄を省く論調の中でいかに医療費などを切り込むかは、その後多くの国々で実行されてきた。

そのような中で、無駄とされた病床が必要以上にカットされていれば、今回のような感染症でオーバーシュートして一気に増加した患者さんの収容先もなく、充分な検査や治療を確保できない。そんな現象が多くの欧米先進国で起こり、感染症蔓延対策にもかかわらず死亡者数が大幅に増えていった。これが医療崩壊というような表現で取り沙汰されている。しかし実は、崩壊したのは医療現場の内部だけではなくて、そういう事態を招いた政策論そのものだったのではないだろうか。医療が状況に合わせられなくなって自律的に内部崩壊したのではなく、医療の必要量に天井を設定シーリングして、病床を強制的に削減や転換をさせ、予算や人員にも大きな枠を設けたミスマッチ政策が限界を露呈したのだろうと考えられる。

通常業務でも交代勤務体制を遵守するのがギリギリで人員が配置されて「不要不急」とされた機材も最小化されている組織では、ニーズが爆発的に増えたときに即応できなくなるのが当然の結果だ。元来、特に急性期の医療における人的?設備的な必要数というのは、あたかも動物が生命体として呼吸するごとく、多くの要因によって常に変化増減している。医療とは、季節要因や気象変動、時節の変化やスポット的なイベント、職場環境要因による外傷や疾病、事故や災害そして感染症の増減など、人間の活動とそれを取り巻く様々な因子で変化する総体であって、欠品なく一定の製品を市場に提供するための工業的なQC運動を中心としたシステム論などだけでは対応しきれない有機体なのだ。

日本においても既に、地域医療計画によってあらかじめ算定された必要病床数に地域の病床全体を絞り込み、急性期病床もそして人員も、削減する方向での政策実行の途上だったのだ。それが完成に至っていなかった分で、まだしも対応が可能だったと見ることもできる。

例えば、洪水被害で家を失って避難所に駆け込んだ人々に向かって、医療消費論を訓告する場面を想定すれば、いかにその論法がお門違いか知る機会になるだろう。

健康産業的な贅沢部分としての健康投資を制度にどこまで組み込むのか、という論議もあるだろう。ギリギリの極限状況下に置かれた被災民の健康を守る活動を単なる消費行動の部門に分類するのならば、人々の人生や未来をかけた努力とそれが奏功した時の更なる生産活動や経済活動を全く評価できない物差しとしては評価に値しないものであることが明瞭だろう。健康が守られなければ労働も生産活動もあり得ないのが現実だろう。無駄を省くことと必要な社会的投資部分を削ぎ落とすことは、方向は似ているが全く違う結果を招くことになる。介護保険や医療関連職種の活動でも、標準的な医療?介護の総体を時代に合わせること、それに相乗する救急災害対応部分を充分に手当てすること、元来、生命や健康を守ることとはこの総量そのものなのだ。

 

さて、ここまで論じても、まだこれまでの医療経済学の信奉者には、異論があるだろうか。それなら、簡単な質問を一つ用意したい。あなた自身の健康が脅かされ生命そのものも危機に瀕したとすれば、その生存や健康の確保に使う資金は消費なのだろうか、それとも人生というストーリーが終わってしまわないように努力する投資なのだろうか、と。それが新たな人生を得るためにやむを得ない投資だとすれば、その極限状況を多数重ね合わせた資金投下もまた投資であるはずだ。

 

近年において一般的に災害時の避難所として充てられてきたのは公民館や公立学校の施設などだが、予想を超えた降雨や極端な気象においては避難民の数の方が上まってしまうケースが出現している。しかも、今回のように感染症防止策としての社会的距離を取らなければいけないとすれば、現状でも収容人数は大幅に削減されたと同様の状況になる。古来、神社やお寺の境内や建物は地域住民が災害からの早い脱出を願う祈りも含めて参集して情報連携し助け合うシステムだった。最早、公的施設の臨時的な利活用だけでは対応が困難になっている。公共施設や教育機関の災害時利活用や人的対応も医療?介護含めた部局横断的な政策として見直される必要があるだろう。宇沢弘文教授が表現したように、医療は社会的共通資本としての存立意義があり、更に、危機に瀕した人々に安全?安心を与えることができる基本的システムでもあるからだ。

社会の対応力レジリエンスを高める災害対応や行動までも健康投資活動の一環として捉え直してはどうだろうか。必要な方策の総体が見えてくれば、それに合わせた多くの政策の方向づけや必要な財源論も見えてくるだろう。

頻発する自然災害や大規模感染症に対して社会的対応力を上げる方向も加えて、この機会に新たなヴァージョンの方向性を上書きすることこそが、現在を生きる多くの人々の願いに応えることだろう。

 

*論議をまとめると

高齢化と同時進行する人口減少社会において、既にコロナ前/ビフォーコロナの段階でアジアからの多くの留学生などが迎え入れられ、いわゆる観光中心のインバウンド効果だけでなく、様々な形の社会参加が就学者であったり同時に非正規雇用者としての活動なども行なわれていた。この傾向が新型コロナウィルスのパンデミックによって一旦退縮した訳である。

コロナ対策として大幅な対策費を第2次補正予算まで立案して、各地の地域経済の立て直しを図る必要がある。この中にはリスクの高いコロナ対応に従事した医療への対策費も含まれているとされるが、全国の病院が減収になっているという調査結果を踏まえれば、この対策はもっと広く大きくなっても良いはずである。もう一方で、財政健全化の途上であるという時節感も必要であり、この二律背反は世界中多くの国?地域?業種が抱える同種の悩みだ。未だ当分コロナと共に/ウィズコロナの状態での低空飛行状態が続くことも認めざるを得ない。それならば、この先に、どのような行動様式が想像できるのかも併せて論じる必要があるだろう。

その中で優先順位をつけて、復興と組織の新たな目標づくりや構造的改革までを同時に進めることに成功したところから、次の時代の担い手が出てくるだろう。

 

今回のマスク騒動でも国民の多くが実感したように、いざとなった時に必要な機材や消費財についてはグローバルなサプライチェーンだけに頼らずに、国産化して地域経済に繰り込んでいく必要がある。今回は、自然災害部分がなかったから国内の資機材偏在については、流通部門の頑張りもあって、何とか大きな破綻なしで済ますことができた。これに地震や台風などが相乗した場合には流通の機能低下も大きく顕在化し、同じ国内であっても著しく資材が不足して住民の健康?生命を守ることが困難になる地域が生じるリスクがある。日本は本来、自律的で自己完結可能な地域経済や人材育成を行ない、必要な備蓄も実行してきた伝統を持っている。例えば東北地方太平洋岸では、夏のオホーツク海から吹き寄せる北東の冷涼な風ヤマセによって深刻な飢饉に古来何度も苦しんできた。そのために、庭木には実物と言われる果実を実らせる樹木が必ず選ばれ、農村では翌年の種籾を確保するために1年分を備蓄にまわし、1年経過した古米を食べて生活する習慣を持っていたのだ。そういう先人の知恵や伝統文化が近代化とともに忘れ去られていた。一極集中モデルには、大きな限界が見えている。かといって東京のミニチュア版を作ってみても、多様なリスクと隣り合いながら地域社会を形成し人々の存立を図る方向が見えるわけではない。東日本大震災と津波被害、それに続く原発事故、そして今回の新型コロナ騒動という経過を通して、その経験と知恵に基づくものを考え、そして未来に目指すものを持った社会を形作る天啓としてはどうだろうか。

 

日本が存立を守りながら、アジア地域を牽引する一員として果たしてきた歴史的な役割にも思いを巡らせて良いだろう。四方の海が天然のバリヤーとして機能していた反面、周辺諸国やひいては世界にも繋がるルートも維持して、常に自らを律しながらしなやかに生き抜き外部のトレンドも受け入れて、今日の繁栄は築き上げられて来た。

現在のアジアは世界の人口重心の中心地となっていて、多くのことがアジア抜きには語ることができなくなるだろうし、多くの若者たちが日本文化に対しても関心を持っている。その若者たちを受け入れて就学の機会や雇用への道を開いておくことは、同世代の日本の若者たちにとっても、新たな人間関係によってより多くの可能性をつくる機会にもなると考えられる。それぞれのルーツから切り離されたような行き過ぎたグローバリゼーションに一気に戻ったりせずに、地域社会に足掛かりを持ちながら世界に通じる在り方や生き方を見つけることが、人口減少とそれに伴った社会収縮を目前にしたこの国の、取るべき方向性だろう。社会保障制度を含めて地域社会の持続可能性を保ち、自分らしさを見つけて社会活動や経済活動していく素地をつくっていく必要があるだろう。

 

 

【石井 正三(いしい?まさみ)先生 プロフィール】

欧宝体育投注下载 健康社会戦略研究所 所長?客員教授。

医療法人社団正風会石井脳神経外科?眼科病院理事長、地域医療連携推進法人医療戦略研究所 所長代表理事。

いわき市出身。弘前大学大学院医学研究科修了。医学博士。いわき市医師会会長、福島県医師会副会長、日本医師会常任理事、世界医師会副議長、世界医師会財務担当理事を歴任。ハーバード大学公衆衛生大学院国際保健武見プログラム「名誉武見フェロー」、藍綬褒章受章、日本医師会最高優功賞受賞、総務大臣感謝状拝受。69歳。